Hand in Handレポート 「”フルーツの香り漂うロマンの里”再生へ歩む大熊町を行く」

全国各地の災害被災地の「今」と、その土地に暮らす人たちの取り組みや、地域の魅力をお伝えしていくプログラム、「Hand in Hand」。
「あれから10年、復興が進む福島を行く」と題して、来年3月に東日本大震災から10年目を迎える福島県の「今」をお伝えしています。

今回は、福島県の大熊町を訪ね、「”フルーツの香り漂うロマンの里”再生へ歩む大熊町を行く」と題してレポートします。

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東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町は、2011年の東日本大震災による原発事故で、住民全員が町外に避難。いまも、町民約1万人の約98%が町外で暮らしています。
一方で、2017年11月には、避難指示を解除し、居住を可能とする「特定復興再生拠点区域」が定められ、住民帰還へのあゆみがスタートしています。

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大熊町役場の新庁舎(大河原地区)
町営の災害公営住宅

また、2019年の春には、大川原(おおがわら)地区と中屋敷(ちゅうやしき)地区の避難指示が解除され、大川原復興拠点に整備した町役場新庁舎での業務もスタートしました。町営の災害公営住宅への入居も始まるなど、徐々に町での生活が再開しています。役場前には仮設コンビニや居酒屋などもオープン。JR常磐線が全線再開して、大野駅も利用が再開されています。
大川原地区の空間線量率は、2020年10月23日のデータで0.13μSv/h(大川原第一集会所)と、福島市と同レベルで、生活するには全く支障がありません。

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ダイニング大川原
JR常磐線 大野駅

梨やキウイなどのフルーツ栽培が盛んだった大熊町は、かつては「フルーツの香り漂うロマンの里」というキャッチフレーズで親しまれていました。自宅用にキウイを栽培する家も多くありました。
ところが、事故発生後の全町避難(全住民が、町外で避難生活を送ること)は8年に及び、多くの果樹園があった町の農業も寸断されたままになっていました。
そして、避難指示の一部解除から1年半が経って、少しずつ町の機能や住民も戻り始めている今、「フルーツ栽培を通じて、町に再びにぎわいを!」という動きが始まっています。

そんな大熊町で、「フルーツの香り漂うロマンの里」再生によって、復興に取り組む人たちがいます。
イチゴ植物工場の「ネクサスファームおおくま」と、町の住民らでつくる「おおくまキウイ再生クラブ」です。

まずは、2019年の春に稼働を開始した「ネクサスファームおおくま」を訪ね、工場長の徳田辰吾(とくだ しんご)さんにお話を伺いました。

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ネクサスファームおおくま
● 徳田辰吾さんのお話
  • 施設の栽培方法や特徴などを教えて下さい。

    高設養液栽培という方法で、高い所のベンチに1株1ポットで栽培をしています。溶液をドリップする形で作っていまして、ハウス内の環境は基本的にはすべてコンピューターで制御しています。ですので、コンピューターでできること、機械でできること、人じゃなきゃできないこと、そういったものを分業してやっているようなスタイルです。

  • 初収穫の時の様子を教えてください。

    あの時、「できた!」と言って泣いている人もいたくらい。何かを作って、実がなって、というのは、人の心にも良いんだろうな、というような気はしましたよね。何もないところから出てくるわけじゃないですか。町民の方なんかは、大変な思いをしてやっとこの町に戻ってきて。そこは、何も作れなくなった町だったんだけど、そこから何かが生まれた、というのを喜ばれたんじゃないかなと。そういう涙だったのかなと、僕は感じていて。そういうのを見ていると、もらい泣きじゃないですけどね。やっててよかったよねって、やっぱりなりますよね。

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  • どのようなイチゴを生産されているのでしょうか。

    去年は5品種。冬のイチゴですね、作らせていただいて。今年はその中から2品種、「かおり野」という品種と、「やよいひめ」という品種を選定させていただきました。「かおり野」という品種は早生の品種で、「やよいひめ」という品種は逆に奥手の品種で出るのが遅いので、やっぱり、「年中いちごを生産する」というところで、作業を平準化していきたいんですね。作業を平準化していくことで、安定した雇用を生むというところも一つの目標です。ですので、早い品種と遅い品種を組み合わせるとか、夏のいちごと冬のいちごを組み合わせるとかの形で、1年間で、そんなにたくさん取れなくてもいいから、安定して取れるという作り方。「これが理想的だね」ということで、そこを目標にして生産しているという感じですね。

  • この工場の目的はどういったところにあるのでしょうか。

    ハウスの建設自体は町が計画して、施設も町が所有している設備で、私たちはそれをお借りして運営しているという形です。いちごを栽培して町の産業にするという、町が作った計画に基づいて、帰ってくる町民の方々、新しく町民になってくれる方々の雇用とか。町の失った農業を、町の産業として作っていくという目的とか。あとは、農業自体がですね。やはり人口が減ってきていますので、今後農業ができる人材とか、それをコンピューターや機械を組み合わせて作れる、そういった新しい農業の仕方の人材を育成していく。こういうことが、産業を、20年先、30年先の町に残していくことに繋がっていくのかなと。そういうことで頑張っていますね。
    夏の時期は、作っている生産量も多いので、働いてくださる方は45人くらいまでいらっしゃったんですけども、今(10月)はちょっと落ち着いてきたので、だいたい27人くらい。そのうちのだいたい15人くらいは町民の方ですね。この町民の方の半分くらいは、この事業をするために他県とか近隣から住民票を移して大熊の町民になっていただいて、働いてくださっている方々というところで。やはり、この町の雇用にも貢献できているかなというところと、あと町民の誘致にも少しずつ貢献できているんじゃないかなという感じはしますね。

  • 徳田さんも県外から移住されたと伺っていますが、現在の大熊町の復興について、どこが進んでいて、どこが課題だとお考えでしょうか。

    僕も出身は北海道なので、この事業のためにここに来てやっていますけれども、特段どこと違うということはないんですが、まぁ田舎ですよね。自然豊かな田舎で、すごく町民の方を含めいい方が多いですよね。すごく頑張っている人に対して、優しく接してくれるんだというところとか。お会いしても、いつもお声かけていただいて、「頑張ってる?」「どう大変じゃない?」と言ってくださいます。まだまだ不便ではあるんですけど、まぁ、いま一般的な現代社会の生活が便利すぎますから、こういう生活もありなのかなとは思います。で、やっぱり一度、何もなくなってしまったという環境があるので、良くしかなっていかないんですよね。少しずつかもしれないんですけど。1軒お店ができたら、「わぁー!」ってなりますし。「じゃぁ、行こうか」ってなりますし。こういう、町を作っていくという大きな目標に対して参加できているというのは、いま町に住んでいるうちの従業員さんたちも楽しみながら、たまには「不便だな」と文句言いながら。だけど、「どんどん良くなっていくよね」というのを感じながら、生活してくれているんじゃないかなと思いますね。

「ネクサスファームおおくま」では、建物内や敷地内の放射線の量を年に4回計測しているほか、苗や培地などの仕入れる材料、使っている水、原材料のすべてを検査しています。もちろん、収穫したイチゴもすべて全量検査をしています。これまで、検査に引っかかるイチゴは一度も出たことはありません。

夏のイチゴは、主にケーキなどの加工用に出荷されています。一方、甘い冬のイチゴは12月ぐらいから収穫・出荷がスタートします。イチゴは、大熊町唯一のコンビニ「ヤマザキショップ」で買えます。そして今後は、「ネクサスファームおおくま」でも購入できるようにしていくほか、近隣の道の駅でも販売を進めていく予定。ネット通販も開始に向けて、いま準備中だそうです。
また、生のイチゴのほか、「美味しい!」と評判の夏いちごのジャムや、夏いちごのセミドライフルーツなどの加工品も作っています。
機会があったら、一度、ぜひご賞味ください。

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大熊町で唯一のコンビニ「ヤマザキショップ」
夏いちごのジャム「おおくまベリー」

「ネクサスファームおおくま」では、町に暮らす人たちの働く場として、町を挙げて取り組む大規模なイチゴ栽培を行っていました。


続いては、町の住民らでつくる、「おおくまキウイ再生クラブ」を紹介します。

梨とともに、かつて町の特産品だったキウイ。大熊町のキウイは、農作物としてだけでなく、自宅の庭で栽培する人も多く、町ではなじみ深いフルーツでした。
そんな特産品のキウイを復活させ、町の人たちと協同で復興に取り組む環境をつくろうと、町の有志が集い、設立されたのが「おおくまキウイ再生クラブ」。

「おおくまキウイ再生クラブ」では、2020年の春に、18本の苗木を植えました。すくすくと苗木が育つキウイ畑で、クラブ代表の栗城英雄(くりき ひでお)さんに話を聞きました。

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● 栗城英雄さんのお話
  • どのような経緯でキウイ栽培を始めたのでしょうか。

    もともと大熊では、20年か30年くらい前にキウイ栽培が始まったと聞いているんですが。私も大熊でキウイ栽培が盛んだった頃、要は震災前ですね。その頃に、大熊のキウイを食べたことがあって。私の妻が双葉郡の出身で、それで結婚式のお祝いで贈ってもらったんです。そのキウイがとても美味しくて。「うまいキウイを、日本の中で作れるところもあるんだな」と思っていたら、震災になってしまって。いろいろあって、震災で大熊に関わるとなった時に、そのキウイをいただいて食べたことを思い出して。復興の仕事に関わる中で、「大熊に何かできることはないかな」と思った時に、そのキウイを作っていた人、千葉に避難されている方なんですけど。その人に、「どういう風にキウイを作っていたんですか」という話をしたら、「簡単だから、お前も作ってみたら」みたいなことを言われまして。そこで、「簡単ならやってみようかな」と思っちゃって。それで、私の地元のつくばでキウイ栽培を始めたわけです。
    で、1年後くらいに苗も育ってきて。大熊の方に仕事で来て、町の人と関わることもあって、「つくばでやってることを大熊でもできたら」と思って、「こういうことをやりませんか」ということを言ったところ、何名か賛同してくれる方がいて。それで、大熊のほうでも実際にやってみるという風に至ったということです。

  • 畑の広さや規模、今後の収穫の見込みなどを教えてください。

    こちらの畑自体は、1,700平方メートルくらいの、1.5反とかそのくらいの広さです。私も別に農家ではないので、キウイを作るのは今回初めてなんですけど。聞いている話では、500平方メートルだとだいたい500kgくらいが標準なんですけど、私が習っている人はだいたい3倍の1,500kgくらいは取れていたと。「まぁ、そこはテクニックだからお前も頑張れ」みたいな。それなら収穫量は、その間の1t、1,000kgくらいを目指せればいいかなという風に思っているところです。

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  • 大熊町の方々によって、「おおくまキウイ再生クラブ」はどのような存在なのでしょうか。

    私どもは本当に農家でもなければ農業の素人で、農業としてキウイをたくさん作れるとは思ってはいなくて。ただ、大熊って、もともと全町避難で町にいる方が0になってしまった中で、「何か大熊で昔あったものを復活させよう」とか、「大熊に関わりたいんだけど、どう関わったらいいかわからない」とか、そういう人って結構いるのかなと。そんな風に思っているのと、町がやっている避難者へのアンケートなんかを見ると、「大熊に関わり続けたいんだけど、帰ってくるのはちょっと難しいかな」と思っている人が6割くらいいたりとか。そういう状況の中で、関わりたい人がいろんな形で関われる。例えば、来れる人は2ヶ月に一回とか来て、こういうキウイ栽培に関わってもらう。町と一緒にやっている取り組みなので、町の広報にこの活動を入れさせてもらう中で、全く来れない人もその広報を見て「こういう取り組みも始まったんだな」と思って、懐かしんでもらうとか、応援してくれたりすればありがたいなと。で、そういう活動になれば、「大熊って放射能でいろいろあったけれども、実際はちゃんと食べられるものが作れるんだね」とか、そういう風に思ってくれる人が増えていけばいいかな、と思って活動を始めました。

  • どういった方々が取組に参加されているのでしょうか。

    だいたい町の方が半分ぐらいで。こちらの方に働きに来ている方とか。私自身もそうなんですけども、関係人口というか、「町の方に来ているんだけど、仕事以外で町に関わりたいな」と思っている人。それが半分くらい、今15人ぐらいで活動をしているところです。

  • 今後、キウイの収穫に向けて、また収穫した後、どのような展開を考えているのでしょうか。

    成功した時の姿を皆で共有しながら関わっていく中で、試行錯誤できるというのも、なかなか他にはない楽しみなのかなと思っていて。とりあえず、「失敗するかもしれないけど、やってみようよ」というところからスタートしたプロジェクトでもあるので、そこは過程を楽しみながらですね。やれる人にやれる範囲で関わってもらうということで、やっていければと思っています。ただ、できたものをやっぱり面白いものにしていきたいとは思っているので。集まった人の力を借りれば、そのまま生のまま食べるだけじゃなくて、「お菓子にしよう」、「スムージーにしよう」、「キウイのふりかけなんか面白いんじゃないの」とか。最近は桃の漬物とか、ピクルスとかもあるので、「キウイのピクルス作ってみようよ」とか・・・。そういう新しい発想も描きながらやっていきたいなと思っています。

500平方メートルの畑に植えられた18本の苗。一般的なグリーンのキウイと、黄色い果肉のゴールド、そして赤い果肉のキウイの3種を育てています。
このキウイが実をつけるのは3年後。町に帰還している人はもちろん、帰れないけど町に思いを寄せる人たちの交流が、このキウイ畑で続いていきます。

復興への歩みが始まったばかりの大熊町。
2011年3月の震災と原発事故の直後、町民の多くは、会津若松市へ避難しました。その当時、会津若松市の市長を務めていたのが、前復興副大臣の菅家一郎(かんけ いちろう)さんです。
当時のこと、そしていま、復興、再生の途上にある大熊町の現状について思うことなど、お話を伺いました。

● 菅家一郎・前副大臣のお話
  • 当時苦心したことや思っていたことについてお聞かせください。

    当時はもう、着の身着のままで、皆さん避難されたわけですね。その中で、大熊の町長さんから「ぜひ、お会いしたい」という連絡が入りました。私は、当然、「大熊町の町民を受け入れしてほしい」という要請があるだろうと思ってお待ちしていました。ところがですね、町長さんからは、「子供たちがもう3月ですから、進級しなくちゃならない。卒業しなくちゃならない。こういった状況の中でみんな分散している。なんとか子供たちを守りたい。だから、会津若松市に幼稚園と小学校、中学校をなんとか用意してほしい」・・・という、そういう要請があったんです。私は感動しましたですね。最初に子供を守るという話を聞いて。それで、幼稚園、小学校、中学校が、会津若松市に作られることになったわけですね。そして、会津若松市の文化センターで、合同の入学・進学のセレモニーが行われた。目の前に幼稚園児から小学生、中学生が一同に揃って式典が行われた時は、みんな感動してですね。胸が熱くなったのを未だに忘れられません。

  • でも、そういった、その場所でしか分からなかった感情ですとか空気というのは、本当に菅家さんは感じられていたと思うんですが。そういった菅家さんから見て、いまの大熊の復興の様子についてはどのような感想をお持ちですか。

    まさに、特定復興再生拠点区域というのが大熊町に設けられて、復興を進めていこうと流れができている。そして、2019年3月31日には、大熊インターチェンジが開通、2019年4月14日には、大熊町役場の新庁舎が開庁をするわけですね。だから、本当にその当時の大熊の方々の不安な思いを感じていれば感じているほど、この10年間で復興が進んできたことがですね。復興庁の歴代の大臣もそうですし、県と地元の町長さん、皆さん方の、やっぱりなんとか復興したいという思いが、こういう形で繋がったのかなと思っております。いろんな住宅も、この間視察に伺ったら何人かもう町にお住まいになっていたり、こうやって戻れることになったというね。「ああ、よかったな」と。しかし、まだ約800人ほどの方々が会津にお住まいになっているという現状もあるし。まだまだ帰還困難区域もあって、まだ多くの方が避難されているのが現状でありますし。こういった課題がありますから、一つ一つ取り組んで行かなくちゃならないと、こんなふうに感じております。